豊臣秀吉は、中指の先まで伸びる長い『天下筋』とされる運命線を持っていたことが知られていますね。
『天下筋』と言われる運命線は通常、中指の第二関節くらいまでとされます。
それよりも長く、第一関節まで伸びていたというのは驚きです。
なぜなのでしょう?
その秘密を見ていきたいと思います。
豊臣秀吉の手相とされるもの
豊臣秀吉の書状 手形 (戦国安土桃山時代)とされるものです。
西谷泰人先生の著書の中でも紹介されています。
生命線の内側の下部分から、中指の第一関節あたりまで伸びる長い運命線と、マスカケ線が特徴的ですね。
本来の運命線は、中指の第二関節までだったそう。
中指の第一関節の位置までは、刀で彫ってのばしたと言われています。
考えるだけでも痛そうですが、出世したいという強い野心が伺われますね。
秀吉は、手相に強い関心をもっていたとも考えることができます。
そして運命線が生命線の31歳地点で交わり、そこから中指に向かって昇っています。
永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
秀吉は1537年に生まれたとされているので、近江箕作城攻略戦で活躍したと記された1568年はちょうど31歳だったのです。
大出世は、31歳の歳から始まったとされています。
また運命線の出発する場所にも、興味深々ですね。
金星丘から出発する運命線
長い運命線は、生命線の内側の金星丘から出発していますね。
金星丘は身内や親せきをあらわす場所。
親からの恩恵が大きかったり、遺産を相続するなど身内の人達の支援が厚いことを示すものです。
そしてもう一つの見方では、ある異性に対して抱く強い愛情がその人の全生涯にわたって影響するという宿命をあらわす相とも。
一番多いのは、恋してはいけない人を慕うとか、結婚に縛られている人。
さらに、いくら慕ってもあなたの愛情に答えることができない人に愛情を抱くなどで、生涯を不幸にする手相とされます。
女性にこの手相がある場合は、もっとも不運だと言われます。
秀吉の生涯で影響を与えた異性と考えると、正室のねねと側室の淀殿(よどどの: 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)))ではないでしょうか。
他にもたくさんの側室がいたとされますが、淀殿は秀頼という跡継ぎの子供を産んでいます。
いろいろな説があるようですが、金星丘から伸びる運命線の意味からすると、淀殿が宿命の人だった可能性が高いですね。
まとめ
豊臣秀吉のもっていたとされる運命線『天下筋』についてみてきました。
『天下筋』という名のとおり、この線を持つ人は天下を取るほどに運が強いことを暗示しています。
しかし長くても中指の第二関節くらいまでだそうで、秀吉ほど長い人はいないとも?
またこのタイプの手相を持つ場合、強運ですが、なぜか後継者(跡取り)が続かないともされます。
晩年運に恵まれないとも。
秀吉は61歳ころに亡くなっていますが、安土桃山時代の平均寿命が30代とされる中では、長寿だったのではないでしょうか。
いつの世でも、家や会社を継続するのは大変だなとつくづく感じます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。